ボイス読書会 第三回 「わが友ヒットラー」

共有用URL https://everevo.com/event/40315
開催日程

2017/09/30(土)13:00 ~ 17:00

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詳細

ボイス読書会の第三回開催を開催します。

三島由紀夫の「わが友ヒットラー」を題材として取り上げます。
最近ですと東山紀之や生田斗真が出演していますが、定期的に舞台化されて来ている作品です。また、三島自身による読み上げの録音も残っている事でも知られます。

新潮文庫で93ページですので1時間30分ほどで読了する見込みです。
出来れば配役を変えて二周します。

今回の題材は作品特性として男性4名しか登場しません。
このため定員5名としました。
経験的に、女性が男性の役どころをこなす分には違和感が少ないので、女性の方も奮ってご参加ください。

音読をたっぷり楽しみましょう。

【題材】
「サド侯爵夫人・わが友ヒットラー」 三島由紀夫
新潮文庫版を各自お持ちください

【定員】
5名くらいまで (作品特性のため)

【日時】
2017年9月30日(土曜) PM1:00〜PM5:00

【場所】
駒込地域文化創造館 4F 第4会議室
東京都豊島区駒込2-2-2

【費用】
参加費:無料
会場使用料:800円を割り勘します

【当日の流れ】
自己紹介:名前と抱負と自己アピール
ブリーフィング:主催者が題材について簡単な説明をします
配役:役どころの割り振りを行います
音読:課題本を音読します
休憩:適度に休憩します
音読:読了するまで音読します
感想交換:感じたこと思ったことをシェアします
意見交換:疑問や意見をシェアしてディスカッションを楽しみます
解散:解散します
親睦会:やるかもしれません

●ボイス読書会 参加申込
参加チケットを入手
当日は1階ロビーにて待ち合わせ

【資料】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%8C%E5%8F%8B%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC

設定・主題
舞台は、1934年(昭和9年)6月30日夜半の「レーム事件」前後のベルリン首相官邸の大広間。登場人物は、アドルフ・ヒトラー、エルンスト・レーム、シュトラッサー、グスタフ・クルップの実在人物の男性4人のみ。第1幕と第2幕は事件数日前。終幕の第3幕は6月30日夜半。
突撃隊幕僚長・レームはあくまでヒトラーを友と信じる右翼軍人。社会主義者・シュトラッサーはナチス左派。エッセン重工業地帯の独占資本を象徴する鉄鋼会社社長・クルップはヒトラーにうまく取り入る死の商人として描かれる。
三島は、〈レームに私はもつとも感情移入して、日本的心情主義で彼の性格を塗り込めた〉と述べ、『わが友ヒットラー』の主題について、ヒットラーへの興味というよりも「レーム事件」が書きたかったとしている。

政治的法則として、全体主義体制確立のためには、ある時点で、国民の目をいつたん「中道政治」の幻で瞞着せねばならない。それがヒットラーにとつての一九三四年の夏だつたのであるが、このためには、極右と極左を切り捨てなければならない。さうしなければ中道政治の幻は説得力を持たないのである。この法則は洋の東西を問はぬはずであるが、日本では、左翼の弾圧をはじめてから二・二六事件の処断までほぼ十年かかつた。いかにも計画性のないお国柄を反映してゐる。それをヒットラーは一晩でやつてのけたのである。ここにヒットラーの仮借ない理知の怖ろしさがあり、政治的天才がある。(中略)そしてレーム大尉は、歴史上の彼自身よりも、さらに愚直、さらに純粋な、永久革命論者に仕立ててある。この悲劇に、西郷隆盛と大久保利通の関係を類推して読んでもらつてもよい。
— 三島由紀夫「作品の背景――『わが友ヒットラー』」

また、先行で発表された『サド侯爵夫人』(女性のみ6人の登場人物)を書いている時から、それと〈対をなす作品〉として男性のみの登場人物の作品を創作しようと考えていたとし[、〈女らしさの極致〉の『サド侯爵夫人』の奥に、〈劇的論理の男性的厳格さ〉が隠され、〈男らしさの極致〉の『わが友ヒットラー』の背後に、〈甘いやさしい情念〉が秘められているとしている。

『サド侯爵夫人』における女の優雅、倦怠、性の現実性、貞節は『わが友ヒットラー』における男の逞しさ、情熱、性の観念性、友情と照応する。そしていづれもがジョルジュ・バタイユのいはゆる「エロスの不可能性」へ向つて、無意識に衝き動かされ、あがき、その前に挫折し、敗北してゆくのである。もう少しで、さしのべた指のもうほんのちよつとのところで、人間の最奥の秘密、至上の神殿の扉に触れることができずに、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み、レームは悲劇の死の裡に埋没する。それが人間の宿命なのだ。
— 三島由紀夫「一対の作品―『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』」

作品評価・研究
『わが友ヒットラー』は、戯曲としての出来は悪くはないが、ヒットラーを扱っているというタブーから、海外では上演が行われない傾向がある。発表当時も作品自体のことよりも、俳優が観客にウケるためカーテンコールの挨拶でやっている「ナチス式敬礼」について批判し、「今通じる洒落と通じない洒落がある」と秋山安三郎が述べている。しかし、そのような中でも小島信夫は、「古典演劇のようなレトリックの多い文章でしゃべらせているので、福田恆存氏訳のシェークスピアを読むような感じがするが、非常に充実感がある」と評価している。
マイコウィッチ・ミナコ・Kは、三島がヒットラーへの興味よりもレーム事件に興味を持ち、〈レームに私はもつとも感情移入して、日本的心情主義で彼の性格を塗り込めた〉と説明している創作意図を鑑み、「この戯曲はかなり日本化されたヒットラー劇という特性を備えている」と説明しながら、この劇のヤマ場が第2場の、レームが断固としてヒットラーを信じる場面だとし、「それだからこそ、〈わが友ヒットラー〉という表題の意義が大きく浮かび上がるわけである」と解説し、最後のヒットラーの台詞を「三島の技倆を遺憾なく発揮したもの」と評している。
佐藤秀明は、ヒットラーに厚い友情を抱く突撃隊のレームと、ナチスの私兵・突撃隊の処分を考えていたヒットラーを比較し、全体主義の移行のために一旦中道政治の方向を示して国民の支持を取りつけようとするヒットラーよりも、私兵「楯の会」を率いる三島は当然突撃隊のレームと重なるとし、そこに必然的に浮上してくる「政治的敗北」ということを考え併せ、「三島は政治的な敗北を予言したのだろうか」と疑問を呈しながら、むしろ三島が告白しようとしたのは、「政治的勝利や政治的権謀術数への訣別の意志」であり、「粛清される側に立つ三島」が、ヒットラーを「わが友」と呼んだのは、レームの言う「軍隊への郷愁」を、敗者になることでそのまま享受しようという「心情」があったからだと考察している。

伊藤勝彦は、三島の死後に彼の「親友」を自認する「エセ親友」がぞくぞくと出てきたことから、三島が生前にそういった多くの取り巻きの者たちの媚態や偽善を見抜き、華やかで社交的な振舞いの中でも孤独を感じて「真の友」を欲していた人であり、いわばシュトラッサーのようにヒットラーの裏切りを事前に敏感に察知できるような「明察」の人だったとして、それゆえ三島は、自身とは異質の他者である「愚直で、誠実で、人を信じきることができる男」であるレームになりたいと思い、愚直に美に邁進してそれを体現する悲劇的な人物に憧れていたと考察している。そして三島の造型したそのレーム像について伊藤は以下のように解説し、レーム同様に「楯の会」を率いていた三島も、「戦士共同体の再現はもはや帰らぬ夢であることを知りぬいていた」が、それにもかかわらず、「それを信じることにいのちを賭けてみたかった」のだとしている。

レームにしても、まるっきりのバカではない。ヒットラーの裏切りの可能性を知らないわけではなかった。(中略)しかし、“わが友ヒットラー”を裏切ることだけは絶対にできない。彼はいわば戦士共同体を夢みる男だった。その夢が無残にこわされるくらいなら潔く死んだほうがましだった。(中略)たとえ裏切られてもいい。最後まで“わが友ヒットラー”を信じ、ヒットラーの信頼に応えるような、誠実な行動をとりつづけたい。こう考えたからこそ、シュトラッサーに同調しなかった。そうして見事に裏切られ、壮烈な死をとげたのである。
— 伊藤勝彦「わが友ヒットラー」(『最後のロマンティーク 三島由紀夫』)

また伊藤は、ヒットラーの造型については、決して「狂気の人」ではなく、「冷酷無残な政治的人間」であり、そこに「現実政治の実態」を三島が描いているとして、その観点でいくと、「ヒットラーが異常性格で狂人にひとしい存在であるという常識」に妥協していた公演(石沢秀二の演出、平幹二朗の演技)は、三島の原作の「真精神を裏切っていた」と劇評している。
そして、「もっとも冷静で、正気な人間のうちにも、狂人以上の冷酷無残がひそんでいる」という「正気という名の狂気」がこの劇の主題であり、三島が言いたかったのも、「あなたはヒットラーを自分とは無縁な特殊人間に仕立てあげ、ヒューマニズムの中に安住していたいのだろうが、そのあなたの中にもヒットラーが生きている。あなた自身、“ヒットラーの友”なのかもしれませんよ」ということだろうと伊藤は考察し、しかしながら演出家の強調点が三島の真意と噛み合っていないにもかかわらず、『わが友ヒットラー』で交わされる台詞には、三島の精神が躍動し、演劇空間の中に三島が甦り、「三島由紀夫は生きている」と実感できるとして、「すぐれた芸術作品はかくも不出来な演出の中においてすら、真価を発揮する」と評している。